200年前のアレンジメント
ワシントンDCのポトマック湖畔のサクラは有名だ。春になると2000本のソメイヨシノが咲き誇る。100年前に横浜植木が苗木を輸出したのだが、その頃の同社のカタログを見る機会があった。予想以上にいろいろな植物が輸出されていて驚いた。
流通システムが発達していなかった当時、どんな風に花や植物が取引されていたのかに興味がある。
アムステルダムの国立博物館 (Rijksmuseum)で、200年前に描かれた絵を見て、どうやってこんなに多くの種類の花を手に入れたんだろう、と思った。花の種類を見ると、花屋ではなく、ガーデンに咲いていた花をアレンジしたように見える。
それにしても、アレンジが自然でカッコいい。
200年前は花屋があったのだろうか?
フラワーアレンジメントというジャンルや職業はあったのだろうか?
机の上にはビオラが置かれている。
日本ではビオラは秋から冬にかけての花。
オランダやドイツでは春に楽しむ花。
この絵は春の花が描かれている。
レンブラント、ゴッホ、フェルメールを目指して、多くの観光客で賑わっていた。ただ、どこかほのぼのとしている。大人気のフェルメールの絵の前では、ボーイスカウトの子供たちが陣取って先生の説明を聞いていた。
入場制限がされているから混雑していない。作品に触れなければ、近くによってジックリ観察する事も出来る。誰もが、自分の好きなように本物のアートを親しめるのは素敵だ。
私の様に、芸術的な視点ではなく、「これはシャクヤクか?いやいや、バラだな。こっちの花はなんだ?」などと熱心に見ていると、有名な絵なのかと勘違いして人が集まってしまう。これもなんだか面白い。
フィンランドのガスマスク バッグ
20世紀の終わり、トルコで小さな子供たちに囲まれた。身振り手振りでお金をちょうだい、と言ってきたので、「お金はないよ」と言うと、財布で膨らんだズボンのポケットを指さした。そして「ここにあるよ」とニッコリされた。
イタリアのナポリでは、知り合いになったイタリア人から財布をどこに入れているのかと聞かれた。そんなところではダメ、セーターの下の胸ポケットに入れなさいと言われた。
日本から来たお客さんと昼食をとるので、部屋に居たオランダ人の同僚にお金を貸して欲しいと頼んだ。4人もいたのに集まったのは10ギルダー(1000円弱。ユーロの前のお話)。お金を持っていると盗られるから、みんな現金は持っていなかった。
そして、21世紀の私。
あの頃の教えを守って、外出する時は何も持たないようにしている。が、探検旅行、冒険旅行をしているので、やっぱりいくらか荷物を持ちたい。例えば、オランダにはコンビニがないし自動販売機という便利な物もない。だから飲み物、そして少しの食べ物を持ちたい。冬の場合、暖かい帽子、マフラー、手袋も必需品となる。
そんな小物を入れる旅行バッグとして、フィンランド軍のガスマスク バッグを使っている。リサイクルショップで50セントで見つけた。
ミリタリーもの(軍用品)だから、戦争をイメージする人の事を考えてか、前のオーナーが映画・カサブランカのスタンプを押してアレンジをしてくれている。
先日、トラムに乗ったら、同じバッグを持った女性がいてニコリとしてくれた。洋服と上手に合わせていて、とてもカッコいい。ヨレヨレのズタ袋をよくもと感心する。
こういうのがオシャレと言うんだな。
シーボルトは植物をどうやって運んだのか?
オランダから飛行機や船を使って植物を輸出している。
飛行機は数日で日本に着くが、それでも寒い時期は凍ってしまい、暑いと蒸れて枯れてしまう。
船は日本の港に着くまでに50~60日掛かるのでさらに難しい。植物が休眠している時期を選んで、冷蔵装置のあるコンテナで運ばなければならない。苦労して日本に送り届けても、いつも いくらかは枯れる。
飛行機やコンテナ船がない時代、シーボルトはどうやってオランダに植物を運んだのか? とても知りたい。シーボルト博物館の係の方に聞いた時には、「タネで運んだ」と説明されたが、彼はアジサイとギボウシをオランダに持ち帰っている。アジサイとギボウシは挿し木や株分けで増やす方がたやすく、恐らく、シーボルトも株自体を運んだと思う。
だとしたら、どんなサイズの株をどんな容器に入れて運んだのか?甲板に置いていては波がかぶる。植物は塩分に弱いが大丈夫だったのか?などなど。
同じ仕事をしている者としては興味が尽きない。もしかすると、シーボルトが使った方法でやれば、自分の植物も弱らせずに運べるかもしれない。
シーボルトはお茶の木をジャワに運んだ。
また、日本で行われていたタネを保存する方法を観察し、お茶のタネの貯蔵方法に応用した。恐らく、お茶以外でも、当時の日本人が行っていた 保存する方法、弱らせずに運ぶ方法を観察・研究したはずだ。
シーボルトの著書がガラスの向こうに展示されていた。
なんとかして読みたい。が、問題はオランダ語。
幸運にも、ちくま学芸文庫から Flora Japoniaを翻訳した「シーボルト 日本植物誌」という本が出版されているようだ。帰国したら、是非、読んでみたい。
楽しみがまた一つ増えた。
オランダの大日如来 (追記)
無宗教と言っていいと思う。
関わる機会が少なかったからかもしれないが、特に仏教はどこかオドロオドロした印象を子供の頃から持っているし、大人になった今でも、法事などでお寺に行くと、何か不気味な感じがしてしまう。住職の方、実家がお寺の方には申し訳ないが。
でも、ライデンの民族学博物館にある The Buddha roomには暗い雰囲気はない。
とても神聖で平和な空間、心が清らかになる。
大好きな場所の1つだ。
この仏像は、徳川将軍家とゆかりの深い、東京・芝の増上寺から来た、薬師如来、一字金輪、大日如来。1648年に奉献された仏様。1883年にアムステルダムで開かれた 国際植民地博覧会 (International Colonial Exposition)で日本政府から購入された。
家族と博物館にきた5-6歳ぐらいの兄弟は、それまで楽しそうにお喋りしていたのに、この部屋に入った途端 小声になった。
仏様の前で、ジッと目を閉じてたたずむ男性。
無宗教なのに手を合わせる私。
仏像はとても大切な物で尊いものだと思っていたが、売られてしまった仏様だと知ってショックだった。
どんな気持ちでこんな遠くに来たのだろう?
やっぱり、寂しいよね、などと思ってしまう。
だからかもしれない、日本で見る仏像はおっかないが、ライデンの仏様は身近な気がする。もう、日本には帰れないだろうな。可哀そうだ。
(追記 / 2022年12月27日)
年上のカナダ人の友人が次の様に教えてくれた。
「仏様(Buddha)はどこにでも行くんだよ、人々に幸せを与えるために。もし、仏様が旅をしなかったら、未だにインドの小さな村にしかいない事になる。でも、日本まで旅をしてやってきたでしょ。この仏様たちもオランダの人達に幸せを運びに来たんだよ」。
彼の考えは正しいかもしれない。
可愛そうな仏様ではなくなった。暖かい仏様だ。
古本屋で発掘した 5.5キロの本
「ここには何かあるぞ」と その古本屋に入ってすぐに思った。
写真集があるし、背表紙が茶色くなった本が何冊も本棚に並んでいた。店内は清潔で、お客さんはリラックスして本を探している。何より、若い男性の店員が笑顔で挨拶をしてくれた。
そして宝物を掘り当てた。
この宝物は厚さ10センチ、重さが5.5キロある。
家までバスとトラムと電車を乗り継いで1時間半もあり、持って帰るのに一苦労したが、帰り道、早く見たいとウキウキし通しだった。読むのではなく、見る本。
表紙を開けると次のように書いてある。
One Hundred Years of Human Progress, Regression. Suffering and Hope.
(人類の進歩と後退の100年間。苦しみと希望)
1899年から1999年の100年間に、その時代を代表する場面を写した写真集だ。
20世紀は戦争と暴力の世紀だったのだとよくわかった。前向きな明るい写真は少なく、寝る前に見ると寝つきが悪くなる写真ばかり。
1900年に撮影された写真には 中国で活動する日本軍が写されていた。目をそむけたくなる写真。もっと歴史を勉強せねばと思う。
理科の授業で「鈴の音を聞くと犬がよだれを垂らす」という話で「条件反射」を学んだ。そう、パブロフの犬。
鈴の音を聞かせてから犬にエサを与え続けると、エサがなくとも犬は鈴の音を聞いただけで よだれを垂らすと言う、あの話だ。これはアメリカの実験だと思っていたが、パブロフはロシア人だった。もっと勉強せねば。そして、それは1904年にされた実験だ。
100年以上も前の実験を未だに教材として使用している訳だが、科学はあまり進歩していないのか、あるいはこの発見が偉大だったのか、いずれにしてもそんな昔に見つけた事を未だに子供たちが学んでいると知って面白かった。どの位の人がこの事実を知っているのだろう?
ちなみに、パブロフの犬の上の写真には、Russians fleeing Shanghai as the Japanese reach the city (日本軍が上海に到着して逃げ惑うロシア人)という、タイトルが付いている。またしても日本軍が登場している。
高校生の頃、初めて海外から日本を見た時、日本の事がよく見えると思った。
外に出ないと見えない事がある。
それは、その後もずっと感じている事で、外に出て初めて判る事実がある。
この本を手に入れたことで、更に知らなかった日本が見えてきた。
1120ページ。
読み応えのある宝物を手に入れた。